共働学舎とは何か -その願い-
宮嶋眞一郎(創設者)
いまの社会がこれでよいと思っている人は少ないと思います。
それではどこに間題があるのか、熱心に考えざるを得ません。個人の考え方やあり方には相違があっても、社会全体としては競争社会であることが根本的な問題であると思います。
人生の目的や価値の基準が競争原理に基づいている場合が多くあります。
競争がなくては進歩はないと考える傾向が強くあります。そして競争社会は当然勝者優先となり、勝者がすぐれた人であり、勝てない人は駄目な人、役に立たない人と思われ、知らず識らずのうちに差別と不公平の意識が生じます。これは何でも点数で評価して順位をつけなくては決着がつかなくなっている学校教育にも大きな原因があると思います。
教育基本法に人格、人権の平等が唱えられていても、ものわかりの悪い子供、要領も能率も悪い子供、勝負に弱い子供、規格に合わない子供、肉体的精神的に先天的疾患あるいは弱点を持っている子供は、どうしても重んじられないのが普通になっています。
その上、家庭を失ったり、親が子供を育む力が十分ない場合は、尚更のこと子供の困惑と不安は増大し、登校拒否や非行にはしるようになることは容易にうなづけます。
まして体が不自由であったり、智慧(ちえ)おくれなどと言われて、本来弱者の立場を余儀なくされている人達が、競争のできる人達よりも大切にされるということは、教育の世界にすらありません。彼らははじめから特殊児童として、同情はされても程度の低い人問として扱われるのが現状です。
日本の社会では身体の不自由な人にごく自然に手を貸し、その行動を優先的にすることが、まだまだ普通のことではありません。社会全体が余りに能率や効果のみを重んじ、人間そのものを深く見る余裕を失っている結果だと思います。
教育の目的や体制がこの競争社会で有力に生きる人間を育てることに偏っているので、自分の名誉や利益を第一とし、資格や見栄を重んずる人間は多く生まれても、他を重んじ、他と協力して生きようとする人間はなかなか生まれてきません。
しかもごく少数の高い能力を持つ人間を出すための教科課程にしばられている現在の学校教育では、人間性豊かな愛深い人間が育つ可能性は少ないでしょう。いわゆる弱者の上に強者が乗ってつくられているのが、日本の現代社会のように思われます。
多様である故に一致するときにこそ価値がある人間の生命(いのち)を、可能性を見出しつつ育てるところに使命をもつべき教育が、そのあるべき姿から離れて全く別の方向に走り続けているいまの社会は、国の内外でそのうちに取り返しのつかない結果を必ず生じることを憂います。
共働学舎は今の社会通念となっている点数によって評価される価値観ではなく、人間一人一人に必ず与えられていると信ずる固有の生命の価値を重んじ、互いに協力することによって、個ではできない更に価値のある社会をつくろうと願うものです。
目に見える命は、その力量も含めて計ることが出来ます。しかし特に人間にとって大切なのは目に見えない生命です。正直さ、温かさ、誠実さ、信ずる心、愛の心などは計ることが出来ません。科学技術の時代となって、これらの計ることの出来ない大切な生命は、どうしても軽んじられるようになってきています。
共働学舎は、目に見えない生命の大切さを重んじます。それは障害や病気を生来与えられて、生きるのに苦労している人の中に、見えない生命の良さと輝きを、より多く発見することが出来るからです。そのように、あらゆる生命は神によって真に公平につくられていると信ずることが出来ます。共働学舎はその神の公平さを重く感じ、全く差別なく互いが協力し一致することによって、よい社会をつくってゆけると信ずるのです。