この競争社会の一つの大きな特徴は異常な経済力偏重となって現れています。

消費社会は工場生産によって造られた物を買う生活です。最近は日用の食べ物まで、そうなっています。その結果、物が豊かになって、お金さえあれば何でも欲求が満たされ、体を労さなくてもすむ便利な生活が普通になってきています。よい経済社会とは、このような豊かさをもつことなのでしょうか。

素朴な勤労生活の舞台は失われ、子供の世界の特権である自由な工夫と創造力を生かし育てる時と場所がなくなっています。機械文明を発達させるために、人間活動はあらゆる面で管理社会の組織と制度の中に埋没せざるを得ない程です。機械が人間にとってかわり、人と人とが互いに顔を合わせ、言葉を交わし、あたたかい人間関係を持つ場所がどんどんなくなってゆきます。そして気付かぬうちに考え方や人間関係まで打算的、機械的になり、一つの体としての血の流れはもてなくなってきています。

そしてもっとも憂うべきことは、目に見えない存在を通して悟らされる真理よりも、目に見える物の価値を尊しとする考え方があまりにも強くなっていることです。

また自然が少なくなってきた都会では、四季の感覚すら人工的なものの中に消えてゆき、物質的富が子供達の体も精神も弱くするのに加えて、家族同士の温かい心の通い合う会話も心の豊かさも奪ってゆきます。

共働学舎は勤労生活を重んじます。生きるためには、どんな人でも食べ物と住居(すまい)と衣服が必要です。

これらを自らの力で作り出すことの喜びを味わうことが、生活の豊かさの大切な要素ではないかと考えます。その苦労が人間性を高く深く成長させると信じます。苦労はあっても、生きるものすべての本来の望みである生活の自由がそこにあります。創意と工夫がもたらしてくれる自主独立の手作りの生活が生じます。それぞれに与えられている個性と能力が生かされる舞台があります。この勤労生活は、近代社会の特徴とされる分業制度よりも人間互いの関係が親密になり、家族のような強い心の絆を必要とします。

共働学舎は近代文明の象徴である科学技術、機械力を否定するものではありませんが、それによって人間性を乏しくするような用い方は厳しく慎みます。 機械化が進むにつれて能率はよくなっても、仕事ばかりでなく日常の生活まで次第に事務化されてきてしまいます。決められたことをやりさえすればそれでおしまいというのが事務です。そこに互いの思いやりの乏しくなった根本原因があるように思われるからです。
人間の作り出す物と人間自身の力の限界を深く知って、天地の創造主(つくりぬし)を仰ぎたく思います。この生産的勤労生活の中で神を愛し、人を愛し、自然を愛し、生けるものすべての生命(いのち)を愛して生きたいと願います。