物質がつくり出す豊かさが、かえって人間を減ぼすことになるということは、人類の歴史が証明している明らかな事実です。

そもそも文明が進むほどに、何故に病気や障害が増えてゆくのか。

それが、人類全体を堕落(だらく)させないための、見えざる神の経綸(けいりん)であるという逆説を深く理解する時に、身代わりとなって重荷を負うこの人々を疎外するのではなく、むしろこれを尊び、その個々の中に秘められた神性を学びつつ、共に生きる社会をつくることが私達の究極の願いであり、生きる目的ではないかと考えます。
政治体制がどんなに変革されても、心の中に真の価値についての革命がおこらぬ限り、社会は根本的に改善されないと思います。

力対力、報復に次ぐ報復でどんなにバランスをとろうとしても、競争原理を捨てて、真理に基づく新たな原理に立つ人類の生き方を実現しない限り、真の世界の平和はあり得ません。人間がこの世に生まれ生きてゆくのは、自己中心に自分さえよければそれでよいのではなく、他を愛し共に生きるためであることは間違いありません。競争の結果、物質的豊かさを喜ぶ反面、愛の乏しくなってゆく悲しさを味わうようになります。

人間一人一人は、調和ある真の平和社会をつくるために、すべての人が必要な存在としてつくられてるいのだと信じます。私達は、競争社会よりも愛による協力社会の方が、個人としても社会としても豊かになり得ることを信じます。そして、人格と人権とが神の前にすべて平等であることを信ずる時に、はじめてそれが可能となることを、日常の生活の中にまず実証しなくてはなりません。

人間はすべて神の作品です。神の作品には失敗作はありません。一人として捨てられてよい不良作品はないはずです。創造主(つくりぬし)は自らの作品を愛します。その一つ一つに完全者の性質が分け与えられていると信ずるならば、どうしてこれを互いに傷つけ、或いは無視することが出来るでしょうか。互いにこれを尊び喜び、その組み合わせをよくするために熱心に工夫し努力することが、よい社会(神の完全性に近づく)をつくる原動力になると信じます。

学舎には一切、罰則つき規則がありません。 唯一許されないのは暴力です。暴力は生命の否定です。あらゆる生命は神によって与えられていると信じますから、生命の否定は神の否定です。真理と愛の否定です。そして自分の否定となります。どんなに小さな虫や微生物も命がある限り、むやみに殺すのは小さな暴力です。暴力は大小にかかわらず神の前には罪です。暴力に対して暴力をもってする者は裁かれるでしょう。人間の世で勝っても、やがては亡びるでしょう。

私達は真の平和社会を求めます。そのためには、自分達の一番身近な生活の場所をそうしなくてはなりません。互いに赦し合い、神の前に赦しを乞う祈りなくして、真の平和は与えられないでしょう。

共働学舎は、これらの願いと祈りをもって始められた、 独立自活を目指す教育社会、福祉集団、農業家族です。