私連が食べ物を作り、家を建て、工芸品を作り、一年中勤労生活を続け、家族のように寝食を共にして生活するのは何のためか。その中で一人一人の人間は一体どうなってゆくのか。勿論生きるため、収入を得るためです。秘められた可能性を忍耐強く探リ見出すためでもあります。
しかし何よりも、人間(ひと)があリのままの姿を互いに受け入れ、喜んで生きるまでに育ち、体も霊も救われ、一致して生きることが根本的に重要なことであることをはっきりと言わねばなりません。それがよい社会をつくる基礎であると信ずるからです。
過保護で甘えていた人は、苦労して自分のするべき事は自分でするようになるためです。
人間嫌いや恐怖症になっている人が、心の扉をあけられるようになるためです。
発作や体の不自由さが原因で、自信のなさと不安とに沈みがちの人が、心身共に元気になるためです。
親兄弟のない孤独な人が、その寂しさに勝ち、互いによき友となって碓かな前進をするためです。
字が読めない、計算が出来ない、不器用でものが作れないと思っていた人が、自分の意志で、自分のしたいことが出来るようになるためです。
うそつきが、うそを言えなくなるためです。
平気で他人の物に手を出す人が、良心で自分を引っ張れるようになるためです。
わがままで怠け者が、屁理屈(へりくつ)で自分を守らないで精一杯正直に働くようになるためです。
お金が第一と思っている人が、目に見えないものの大切さがわかるためです。
人を責め威張っている人が、人の徳を立てるようになるためです。
会話なき世界に閉じ込められている人が、心も言葉も通う世界の人となるためです。
自分の責任ではない重荷を負う運命の人が、諦めないで自分の人生を責任もって生きる心をもつようになるためです。
他人の評価がすべての基準となっている人が、恐れなく真実に生きるようになるためです。
自分のことが第一となる自己中心の人が、感謝して人のため、全体のために生きるようになるためです。
信ずる心のない不自由な人が、信じて勇気ある人となるためです。
誰かがそうさせるのではなく、そうなれるようにお互いに祈り励むところです。
祈りは誰に向かってするのでしょうか。神の赦しと救いの力なくして、人間の変化も進歩も充分に得られないことを自覚しなくてはなりません。
共働学舎は、キリストによって霊と肉体とが救われることを信じ、それを通して与えられる喜びと生きる力を土台にして生活したいと願っているところです。その上に建てられてゆく、真の愛による人間関係をもって、新しい社会をつくりたいと切に祈るものです。
(1973年記)